カトリック浅草教会 - 歴史

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■ 歴史

▶ 江戸時代

浅草教会の歴史を語る時、江戸における最初の宣教についてふれておきたい。 
徳川家康の貿易政策に協力することを条件に、江戸での宣教をゆるされたフランシスコ会のヘロニモ・デ・ヘスス神父は、1599年「ロザリオの元后聖マリア聖堂」と「修道院」を江戸府内(現在の日本橋か八丁堀)に京都の4人の信徒たちと建て、宣教・司牧にあたった。
ヘロニモ神父の亡きあと、同じフランシスコ会のルイス・ソテロ神父らにより、この聖堂・修道院を中心に東北、幾内方面にもおよぶ宣教活動が続けられ、江戸では3,000人を超す信徒が数えられた。

しかし1613年、将軍秀忠は江戸城の敷地拡張を口実に、突然この聖堂と修道院は取り壊されてしまった。(キリシタン禁教令の実施)
信徒の有志とソテロ神父らは、礼拝堂を建てることを願い出たが許されず、府内から4キロばかり離れた浅草のハンセン病院の近くの寄せ場に密かにわらぶきの小さな礼拝堂を建て、同年6月29日ソテロ神父の手で祝別された。

だが、これはすぐ幕府に知るところとなって、建設を指導した信徒たちは捕らえられ、 伝馬町の牢屋に送られた。(後の1639年、ペトロ岐部神父がこの牢内で拷問を受け、殉教している。)
同年8月16日から、今の教会から東へ約500m行った当時の刑場で27人が処刑され殉教した。

1623年12月4日札の辻で殉教した、ジョアンナ原主水胤信(タネノブ)は浅草のハンセン病院・寄せ場に身を隠していたと思わせる。 
以上の事柄は宣教師たちよって逐一本国スペイン、ポルトガルに書簡で伝えられ、現在ではキリシタン研究にはなくてはならない資料になっている。

▶ 明治維新

日仏修好通商条約が結ばれ、1862年江戸が開港された。
築地の居留地内にフランスの自国人のための教会も出来、それに伴ない神父たちも入国してきた。
パリ外国宣教会の神父たちは、自国民の司牧もさることながら、日本人への布教にも力を注ぎ日本人に洗礼を授けている。
1868年明治維新を迎えるが禁教令は依然続き、居留地以外の土地に教会を建てる許可を得ることは不可能であった。
1873年5月(明治5年)キリシタン禁教令が解除された。
1877年(明治10年)4月15日(復活の主日)築地稲荷橋の教会で受洗したトマ本多善右衛門氏の努力で、江戸時代の書簡によって伝えられていた刑場の近くの浅草区猿屋町16番地(現在の浅草橋3丁目2)に家屋を取得し、フランス語を教える玫瑰(マイカイ:中国語でバラの意)学校を創設した。その家
屋の一室を「聖ポーロ小聖堂」と命名された聖堂で、この日40人の洗礼式が行われた。
玫瑰(マイカイ)学校を拠点とする宣教活動は、めざましい成果をあげ浅草地区に増え続ける信徒のために、教会堂が建てられることを望まれた。ここだけでは、神父・信徒にとって不都合が多かったからで、向柳原町1丁目15番地(浅草教会現在地)に土地と建物を購入した。
同年12月25日 購入した建物の玄関と書院を利用して聖堂とし献堂式が行われた。 (明治10年)
その後、本所の横川町(1884年本所教会として独立)・小伝馬町・浅草馬道(後年売却)・小石川区関口台町(現関口教会)にも信者名義で土地や家屋が買われ、巡回教会となった。多忙な神父を助けるため、信徒は自主的な活動組織や貧者の救援組織をつくった。
浅草の信徒には初めから自立の精神が強かったようである。
玫瑰(マイカイ)学校設立7年後、浅草教会担当区域内には1,000名を越える信者がいた。こう
した発展の裏には、信徒と司祭の協力による宣教活動の体制があったものと思われる。
江戸・明治における宣教のきっかけが、共に信徒によるの呼びかけから始められたことは興味深く思う。

教区ニュース79号(1990年12月発行)より・2010年5月改:文責 里野八郎